以下 ―取るに足らない声明文―
仮にこの世界のすべてが無価値だったとしても、無価値の証明だけをしたのでは取るに足りない露悪趣味に過ぎない。取り上げるべき問題は、その無価値の上に我々は一体何を打ち立てるのか、あるいはどのような価値を証明しうるのか、ということである。ある物がそれ自体での効用を何ら持たず、交換価値以外に何もないとしても貨幣の価値は誰にも信じられている通り、無価値の上に価値を打ち立てることにより我々は生きている。ブランドもまた同じだ。それがそれであることの証明自体が価値である。我々はブランド品に対して、それがそれであること以外の何事も求めない。芸術もそのようになりつつある。今に始まったことではない。モダニズムの起源こそ、真にその起こりであったかもしれないし、あるいはもっと古く、画家や彫刻家と呼ばれる職人たちがこれは絵画や彫刻ではない、これは何事でもない創作行為である、と認識したその時から、あるいはこれは他でもない、アート(芸術)である、と確信したその時から、芸術はそれ以外の何物でもなくなったのかもしれないし、芸術がただ芸術であることを明言しさえすればよくなったかもしれない。すなわち、いつしか芸術は「これはアートだ!」と言い張ればよくなった。現代においてはまず言い張る勇気が大変重要である。(これは芸術に限った話ではない。多様性を認め過ぎた結果(それ自体は悪いことではない)、自称が増えた。職業や、症状などによく見られる。)もはや名前に価値は無い。誰でも何でも名乗ることができる。言い張る勇気さえあれば。アートもそれと同じになった。アートというブランドはもはや地に堕ちたと言っても過言ではない。それは極めて裕福なごく一部の社会的成功者だけが手に入れることの出来る最高級のブランド品ではない。誰でも自由に言い張れる、作られた任意のもの(有形無形さえ問わない)で、価格の幅も大き過ぎる。(低価格なものは1万円以下で購入できる。)アートの実体は極めて恣意的なものになった。専門機関からの認証もなにも必要ない。そして、以上の事態はとても喜ばしいことである。と同時に、民主制の悪い部分も露呈した。こうなる前、良くも悪くも閉塞的だった世界は多元的な価値観と評価軸のなかで様々の解釈と批評に晒されながら我々は生きてきた。今は人気だけが評価の軸になってしまった。人々は本当によいものを売り込む時でさえ、いかに上手く売り込むかを考えねばならなくなった。それが出来る人と出来ない人とがいるにもかかわらず。現代において口下手は許されなくなった。上手な見せ方で継続的な発信の出来る者が強者である。内容はそれほど重要ではない。必要なのは威風堂々とした態度かあるいは、飄々とした厚顔無恥である。その結果、インフルエンサーとマーケターと扇動家が多数現れた。インフルエンサーの仕事は個人による評価基準を打ち立てる行為であり、より多様な個人の在り方のカタログから、我々は人生を選べるようになったので、よいシステムと言ってもよい。だがそれ以上の問題は、インフルエンサーは良き人生のカタログかもしれないが、良き商品カタログではないことだった。商品カタログはその筋の専門家に任せるしかない。しかし専門家を差し置いて、いかに優秀なマーケターを雇えるか、ということが企業の優先課題になった。なぜならば、専門家の議論に身を任せてまっとうに批評を受けるより、有能なマーケターにバズらせてもらった方が商売が楽であるからだ。本当によいマーケターは、人間が抗えぬものに浸け込む術を知っている。我々は考える隙さえ与えられず、無意識のうちに誘導されていく。難しいことを避けてきた結果我々が得たものは快適さと、その代償としての不自由な選択だった。(厳密に言えば選ばされているので選択していない。)考えずに済むが、そこで掴まされたものが本当によいものかどうかの判断がつかないまま、これはよいものだ、と思わされている。このような事態は、個人の自由を解放すると謳ったインターネット普及後の世の中の自然の成り行きである。そんな世界に少しだけ抗うように、僕は身勝手な価値基準を定め、専門家たちの批評を受け付けながら一元性に立ち向かう。その一方で同時に、自身の活動を否定してみせることとする。個人的な価値を打ち立てようと試みながら公に自己批判を行う矛盾を見せつける。自信を見せびらかすハッタリのマーケティングを、キュレーションにより集うコミュニティとして乗り越えることを以て、僕の作品とする。